みやぴら

みやぴら

大学院で同期現象の研究してる人。

古事記の面白さ

 

 

 先日、古事記(のライト版)を読んだのですが、これがとっても面白い。こんなに面白い日本発の神話があるのに、一般に読まれていないのはもったいないなあと感じましたが、ちょっと読みづらい感があるのもわかります(現に僕もこの年まで避けてきた)。

 

 

僕が読みづらさを感じた主な理由は、登場する神の名前が読みづらい事です。木花之佐久夜毘売、建御雷之男神...とか書かれても分からんってなりました。

 

 

 

 

 

とはいえ、ストーリーはとても面白かったです。なんで面白いのかなぁと考えたのですが、「全体的に神のやることが雑」であることが、"神話"のイメージとのギャップを生んでいるのかなぁと思いました。神話なのでさぞ立派な神々がどでかいことをするのだろうと思いきや、やってることが小粒も小粒。

 

 

例えば、イザナギ(夫)と、死んで黄泉の国にいるイザナミ(妻)の喧嘩のシーンで、

イザナミ「お前の世界の奴ら毎日1000人殺してやる!」

イザナギ「じゃあ俺は毎日1500人産んでやる!」

というくだりがあります。彼らはとても立派な神のはずなのに、その喧嘩の内容はなんとも子供じみていて笑ってしまいました。(小学生の頃にやったバリアを張り合う対決を思い出しました)

 

 

他にも好きなシーンに、オオクニヌシが八十神(オオクニヌシの兄たち、80人いる)に2度殺される場面があります。

[1度目]

オオクニヌシ殺害を計画している八十神に猪を捕まえたいと言われ、自分たちが山にいる猪を追い込むから、オオクニヌシは山の下でそれを捕まえるように言われました。オオクニヌシが律儀に待っていると、山から転がってきたのは真っ赤に焼けた大岩!オオクニヌシは大岩に直撃して死にました。その後、なんだかんだあって復活。

[2度目]

まだまだオオクニヌシを殺したい八十神は、オオクニヌシに倒れた大木の上に乗るように命令します。何も学習しないオオクニヌシはのこのこ倒木の上にやってくるのですが、実はそこは楔で支えられた大木の割れ目でした。そして八十神が楔を引っこ抜き、オオクニヌシは木に挟まれて死にました。その後、なんだかんだあって復活。

 

いや...やってる事のスケール...。君たちほんとに神ですかと言いたくなります。

 

 

 

 

こんな感じで、古事記は登場人物は神なんだけどやってることは小学生の雰囲気があり、そのくせ実は日本創生から天皇家の存在まで説明しているという、ヘンテコな神話です。そのヘンテコさが僕には結構刺さりました。

 

 

グラフの見た目に騙された...「フィッシャーの線形判別 (Fisher's LDA)」

 

 

先日、「二つの異なるガウス分布から生成された(x,y)のデータセットを、Fisher's LDAを用いてクラスタリングしろ」という課題が出たので実装したのですが、タイトルの通り出力グラフの見た目に騙されて1日潰したので、その経験をここに残しておきたいと思います(自戒の念を込めて)。

 

Fisher's LDAの詳細はここでは省いて、問題が生じた流れをまとめておきます。

 

 

 

 

まず、二つの異なるガウス分布から得られたデータセットは以下のようになりました。

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図1. 平均ベクトルと共分散行列が異なる2つのガウス分布から生成されたデータセット

 

 

見た感じ、2つのクラスターに分けられそうです。LDAでやりたいことは、勘で境界を決めるのではなく、定量的に閾値を決めるということです。

 

そのために、このデータの次元を削減することを考えます。つまり、2次元データ(x,y)を特徴をなるべく削らずに1次元に落とします(そのような直線を求めます)。

 

 

 

そして、LDAにより求められた直線をプロットしたのが以下の図になります。

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図2. 2次元の元データのクラスター情報をなるべく落とさないような直線

 

 

この直線が元のクラスター情報を損なっていないことは、全データをこの直線上に射影したヒストグラムを見れば直感的に分かります。

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図3. 直線上に射影した全データのヒストグラム

 

図3より、見事にクラスタリングできていることがわかります(閾値はこのヒストグラムより求まる)。

 

 

  

 

これで無事、LDAによりクラスタリングできたので良かった......のですが、タイトルにある「グラフに騙された」事件は、図2を求める際に発生しました。実は図2は問題が解決した後に修正して得られたもので、最初は以下のような図が出力されました。

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図4. 当初得られた図(プロットしている内容は図2と同じ)

 

この図は、図2とグラフの範囲が異なっているだけです(図2はxlim=ylim=(-4,10)、図4はxlim=(-2,6),ylim=(-7.5,10))。

 

それだけの違いですが、この図を見るとクラスタリングがうまくいっていないように見えてしまいます。つまり、全データをこの直線上に射影すると、黄色点と青点が混じるように思えます。もちろん実際はうまくいっているので、このグラフの見せ方は不親切だということになります。

 

 

 

 

 

以上の件より、グラフは範囲によって視覚的な印象を大きく変えることを体感しました。(こんな問題で1日溶けた...)

また、データ分析などで用いるグラフは適切なものを使うべきということ(この場合は図3が適切)、グラフは視覚的にわかりやすいが、容易に印象を操作できることも学びました。

「学習する」= 行動の変容

 

 

僕は現在大学院修士課程1年なので、小学校1年から数えて約15年ほど勉強してきたことになる。最近、随分長いこと勉強しているなぁと感じてきた(周囲からの就職圧も感じてきた笑)。

長いこと勉強する状況は僕だけに限らず、日本人の多くに当てはまる。大学進学率は約55%、短大や専門学校も合わせれば約80%にもなる。(https://www.mext.go.jp/content/20200825-mxt_chousa01-1419591_8.pdf)

 

  

 

そんな折、ふと「人間が勉強する」ってどういうことだろうと思った。人間は高度な思考が可能な複雑生命なのでよく分からない。ここは物理学の基本方針を取り入れて、もっと単純化してそこらへんの動物について考えてみた。

 

 

 

 

例えばカモ。僕の地元、埼玉県朝霞市には黒目川という川が流れていて、子供の頃はよく河原でカモにパン切れをあげていた。それを続けていると、カモはパンを持った人を見かけるだけで押し寄せてくるようになった。これを見て「カモは賢いんだなぁ(学習できるんだなぁ)」と思ったことがある。

 

なんで僕が「カモが学習した」と感じたかを考えると、つまるところ「カモの行動が変化した」からだと思う。今まではパンを持った人を見ても気にも留めなかったが、"学習後"は群がってくるのである(余談だが、鴨川にはアオサギに餌やりしている人もいた)。

 

 

僕はヒトの学習もこれと同じだと思った。つまり「学習とは行動の変容」であるということ。逆にいえば、本人は学習した気になっていてもその後の行動が変化しなければ、外部からは「学習した」とは判断されない(自己啓発本の一部とか)。 

この解釈は、人間社会はその人の内部状態を観測することが困難なことにも影響されているのかなぁと思ったり思わなかったり。

 

 

 

 

 

もちろんこれはカモの結果を人間に拡大解釈したものだから、少し違和感もある。例えば、カモには心はないが人間には心がある(と思われている)ので、たとえ行動が変わらなかったとしても心(内部状態)が変化しているという場合も考えられる。この場合、この人間は学習したというのかどうかは難しい問題だと思うが、少なくとも個人性を無視して社会的に考えれば、これは学習のうちには入らないと思う。

 

 

 

 

 

 

(2022/8/24 追記)

僕の学習に対するこの解釈は"Behaviorim(行動主義)"と呼ばれ、20世紀前半に心理学界隈で提唱されたものに近いらしい。

 

Behaviorism emerged in the early 1900s as a reaction to depth psychology and other traditional forms of psychology, which often had difficulty making predictions that could be tested experimentally, but derived from earlier research in the late nineteenth century, such as when Edward Thorndike pioneered the law of effect, a procedure that involved the use of consequences to strengthen or weaken behavior.

WikipediaBehaviorism - Wikipedia

 

要するに、「心とか感情って計測できないじゃん。そんなの科学になるの? ちゃんと研究するんだったら、客観的に観測できる"行動"に重きを置いた方がいいんじゃね?」という流れで行動主義が生まれた。(当方素人です。間違ってたらすみません)

 

僕は記事内で、

「学習とは行動の変容」であるということ。

---(省略)---

この解釈は、人間社会はその人の内部状態を観測することが困難なことにも影響されているのかなぁと思ったり思わなかったり。

と書いていたが、当時の人々の感覚とある程度一致していたっぽい?

 

 

ちなみにその後、計測技術の発達によって脳内センシングが可能になったことから、行動主義は以前ほどの支持を得られなくなったみたいです。

高校生からの大学に関する質問の返答

 先日、母校である大宮高校の1年生に、大学・大学院に関する質問に答えるという機イベントがありました。そこで、幾つか生徒からの質問を頂きましたが、時間の関係上答えられなかったものがあったので、幾つかここで返答しておきます。

 

 

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  • 大学に入ろうと思ったきっかけは何か(東北大を選んだ理由)

 「大学に入ろう」というよりは、「大学には通常入るものだ」という考えだった。中学1年生の時は学業成績が良くなく、親に向かって「おれは高校には行きたくない(中卒でいい)」と言った記憶があるので、おそらく大学を意識したのは中学2年生か3年生だと思う。この頃、栄光ゼミナールに通って成績が伸びたことで、大学に行こうと思ったと考えられる(成績がいい人は大学に行くものだという価値観が私の生活していた環境にはあった)。

 東北大学を選んだ理由は、 (偏差値的な入学可能性は言わずもがな)ひとり暮らししたいという(不純?な)もの。詳細は伏せるとして、実家の環境が嫌で抜け出したいという思いはとても強かった。また、ぼくの家庭は家族旅行や帰省(墓参りなど)が無かったので、幼い頃から高校卒業に至るまで、活動区域は殆ど地元+川越市さいたま市という狭いものであった。そのため、一度は全く異なる地域での生活を経験したいという思いが強かったのだと思う(余談 : この思いは今でも強く、趣味の旅行中は当地での生活に想いを馳せている)。また、当時は仙台(というか東北地方)の知識が殆どなく、未知への憧れも選択に影響したと思われる。

 

 

  • なぜ大学院に進学したか

 学術研究というものを体験したかったから。弊学物理学科では、学部の間は勉学がメインで、研究活動はB4(学部4年生)で少しやるくらい。それでは研究のけの字も理解できないので、大学院に進学した。

 

 

  • 大学卒業後なにをしたいか, 学んだことを将来どのように活かしたいか

 将来のキャリアについては殆ど何も考えてない。

 

 

  • 専攻分野に興味を持ったきっかけは何か

 専攻分野を決める段階(B3の冬頃)で、ぼくは伝統的な物理学に興味を失っていた。物理学の研究室は大きく分けて「素粒子原子核分野」、「物性物理学分野」に分けられるのだが、前者は数式に飲み込まれて現象がわからない(これはぼくの能力不足による)、後者は新機能物質の発見や物性の予言、解析などを行っている印象で、端的に言ってつまらなそうだった。そもそもどちらの分野も浮世離れしている印象があり、身近な現象、人間スケールの現象に興味があるぼくにとってはどちらにも好奇心は向かなかった(もちろん、ぼくの経験・努力不足による偏見も大いに混ざっている。上記の分野をDisってるわけではないので...)。

  その点で、生物物理学は割とぼくの興味に合っていたので選択した。細胞分裂は(超伝導素粒子よりは)身近で人間スケールのものだと思うので (実のところ、この後に細胞分裂への興味は薄れ、転学することになるが)。

 

 

  • 大学の講義と高校の授業の違い

 弊学物理学科の基礎科目講義は、高校までのそれとさほど変わらない。というのも、物理学の歴史は長いため今までの蓄積が膨大であり、それらの座学が3年次(4年次以降も)続くからである。基礎科目は古典力学、古典電磁気学解析力学、熱力学、量子力学統計力学+各種数学(線形代数解析学複素解析フーリエ解析...)。

 発展科目(素粒子物理学、物性物理学...)は、 微かに研究の雰囲気を感じることもあるが、基本的には変わらない。

 一方実験講義は、高校のそれとまるで違う。(量もそうだが)いわゆる"考えさせられる"実験課題が多いように思う。とはいえ、真面目に履修しなかったぼくには、どれほどこの感覚が正しいか判断できない。

 

 

  • 進学してよかったこと、大学で学べたこと

 自分の気持ちに正直になれる時間を得ることができ、結果として多様な世界を知ることができたこと。大学1,2年の頃は、勉学へのモチベーションは殆どなく、サークル活動や旅行に明け暮れていたが、今は逆に勉学•研究中心の生活を送っている。テレビゲームに熱中した時期もあったし、実用書を読みまくった時期もある。また、本当に何もしなかった時期もある。感情のままに動き、色んな世界を知ることができた。大学での経験によって自分の中の霧が晴れた感覚があり、これは非常に有益なものだった。

 もちろん、"色んな世界"は勉学からも得られた。特に自分の価値観に影響を与えているように思われるのは、「統計力学」•「複雑系科学(カオスなど)」。

 

 

  • なぜ物理学を専攻しているのに, 生物現象(細胞分裂)を扱っているのか

 これまでの科学が蛸壺化してきているという懸念から、学際領域(異なる蛸壺の融合)の研究が盛んになってきている。生物物理学もその一種で、シュレディンガー著「生命とは何か」に端を発する。東京大学には"新領域"創成科学研究科があるが、これもその流れの一つだろう。

 

 

  • 高校生のうちに経験しておけば良かったと思うことはあるか

 もっと自分の時間を持てるようにすればよかったなぁと思ったりもする(そこまで後悔しているわけではない)。高校時代は、授業・課題・復習・部活の黄金サイクルで、その日暮らしだったので、あまり長期的な視野を持てず、自分の視界も狭かった。

 

 

  • 大学受験で大変だったこと

 興味ないことをしなければならないことと、毎日代わり映えのしない生活が苦痛だった。ぼくの場合、「古典」・「漢文」の勉強は死ぬほど嫌だった(てか死んだ)。嫌なことでも、目標立ててコツコツ努力できる人が、受験には向いているのかもしれない。また、ぼくは(今でもそうだが)休憩の取り方が下手くそなので、それも災いした。適度なリフレッシュ方法を見つけるといいと思う。

 

 

  • 研究する際に心がけておくこと

 まだ研究界では赤ちゃんなのでたいそうなことは言えないが、仮説に飲み込まれないことは大切だと思う。研究は「現象(実験)→仮説→実験→仮説'(修正した仮説)→実験→...」というプロセスが基本になっている。ここで、自分の立てた仮説を盲信してしまい、それに矛盾するような現実(実験データ)を無視してしまう、または歪んだ解釈をしてしまうことがある。「自分は間違っていない!間違っているのは現実の方だ!」という態度は理学研究として相応しくないので、そうならないように常に心がけておくべきだと思う。

 

 

英語格差 (English Divide)

 

格差というものは、古今東西存在していて、かつ最も憎まれているものの一つだと思います。

 

経済格差は当たり前のように存在し、ある実業家が兆単位の資産を保持する一方で、世界には10億人以上の人々が1日1ドル以下で生活しています。(UNDP-貧困と教育-個人での取り組み方)。

 

教育格差もよくTwitterで議論?の俎上にのせられるのを見ますが、当然深刻な問題です(教育格差の現状と今後の政策 (2020年10月29日 No.3473) | 週刊 経団連タイムス)。

 

 

しかしその中でも、「英語格差」についてはあまり一般的な知名度がないように思われます。

試しに「英語格差(English Divide)」で検索すると、幾つかの記事がヒットしました。

 

gendai.ismedia.jp

news.yahoo.co.jp

genius-lv.com

 

 

これらの記事に書いてあることは、要するに

  1. 英語を学習する環境に既に格差が存在し、それに起因する英語力の差によって、あらゆる社会的不平等が発生している。
  2. 英語ができないと何かと不利だから、苦手意識は克服して英語学習頑張れ!

 

ということ。これは確かにそうだなと思う反面、もっと根本的な引っ掛かりをぼくは感じました。

 

 

 

 

 

それは「なんで英語ができないだけで不利を被る必要があるんだろう?」ということです。

 

勿論、英語が国際語としての地位を獲得できたのは、それを母語とするイギリス、アメリカの影響力の大きさでしょう。その歴史的な経緯は納得できるものです。

 

それでも、やっぱり国際語を母語とする人が存在している状況は、それ自体かなり格差社会だと思います。

 

 

上述の記事にも書いてありましたが、英語ができない場合、

  • 情報格差(日本語で調べても出ないものが、英語で調べたらヒットするということはよくある。そもそも論文は大体英語だし...)
  • 国際的な職に就けない(そんなん個人の問題だろ!と思うかもしれませんが、例えば政治家はどうでしょうか。とても頭のキレる人でも、英語が話せなければ外交官、外務大臣(首相も?)は務まりそうにありません。これは国益を損ねていると思います。)

    www.ejef.co.uk

 

 

 

などの格差が発生します。そしてこれは、母語を選ぶ選択権がない以上、許容できない国家間格差であるとぼくは思います。

上述の記事のように、「英語ができないと不利を被るから、英語は頑張って勉強しなければならない!」というのはあまりにも不公平ではないでしょうか。

 

 

 

だからと言って、今更国際語を変える(例えば、母語話者のいない人工言語にする)というのが現実的でないことは、100も承知です。

 

ぼくも「じゃあどうすればいいの?」と言われたら、「どうしよっか?」としか言えません。そんなもんです。

 

 

 

 

 

こういう問題ってあるよなぁと思ったからつらつら書いただけです。

所詮世の中、不公平ですからね。

感染症の(簡単な)数理モデルで遊ぶ奴

 

今日は、簡単な感染症モデルで遊んでみたいと思います。

 

まず、最も簡単なものとして「治療法がわからず、感染力も一定」である感染症を考えてみます。

感染者数をn、感染力(一人の感染者が単位時間に感染を広める割合)をa (> 0)とすると、感染者数の時間変化は、

 

\frac{dn}{dt}=an

 

と表されます。治療法がわからないので、罹患した人は回復しません(つまり、nは減少しません)。

これは簡単に解けて、解は

n(t)=n(0)e^{at}

 

となります。n(0)は時間t=0での感染者数、つまりnの初期条件です。

この関数は、a > 0よりt→\inftyn→\inftyとなってしまいます(つまり全人口が感染する)。

これを、図で理解すると以下のようになります。

 

 

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 いま、nは感染者数を表しているので、0以上の整数とします(おい、nは整数値なのに微分方程式で表していいのかよっていう批判はごもっともですがお預け)。

 

n(0)=0では、\frac{dn}{dt}=0となるので、nの値は0から時間変化しません。つまり、初めに感染者がいなければ永遠に感染者が発生しないということです。実際にはそんなことはなく、新しい感染症は発生します。例えば、今までヒトに感染しなかったウイルスが突然変異してヒトにも感染するようになった場合など。しかし、今回の数理モデルにはウイルスの突然変異の効果は明示的に取り入れていないので、このような結果になるのです(この場合、ウイルスの突然変異の効果は nの揺らぎとして与えるなどの方法があると思います)。

 

n(0) \neq 0のとき、\frac{dn}{dt} > 0であるから、nは増加し続けます(図中の赤矢印のように)。

つまり、図中の緑丸(n=0)は不安定固定点で、少しでも右にずれたら無限大まで大きくなってしまいます。これは、1人でも感染者が存在すれば、時間経過によって全人口が感染する現象を表しています。

 

 

 

 

これは理解は簡単なモデルですが、やや非現実的なのでもう少し改良を検討してみます。

改良点としては、

①感染した人は、一定の割合で回復する。

②人々の行動改善やワクチン開発により、感染力が低下する。

の2点を考慮したいと思います。

 

まず、①の改良については、回復率b > 0を定義すればいいでしょう。

②の改良については、非常に単純化して「感染者数が増えるほど感染力が低下する」と仮定して、今まで用いていた感染力aを、a-nに置き換えることにします。

 

このように考えると、感染者数の時間変化は、

 

\frac{dn}{dt} =(a-n)n - bn
        =-n^2+(a-b)n

 

と表されます(ロジスティック方程式)。

固定点(\frac{dn}{dt}=0となる点)は、n=0 ,n=a-bです。

これは、a-bの符号によってダイナミクスが異なります。

 

 

a-b > 0 のとき

 

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図のように、n=a-bが安定固定点(固定点から左右どちらかにわずかにずれても、また固定点に帰ってくる)になっています。すなわち、a-b > 0(感染力の方が回復力より大きい場合)では、感染者数はn=a-bという値に収束することになります(発散しない!)。

 

 

a-b < 0 のとき

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図のように、n=0が安定固定点になっています。 n=a-bの点は、不安定固定点になっていますが、今回はn > 0の範囲を考えているので気にしません。すなわち、a-b < 0(感染力の方が回復力より小さい場合)では、感染者数はn=0という値に収束することになります(発散しないし、感染もほとんど広がらない)。

(このような安定性の分岐を、トランスクリティカル分岐といいます。)

 

 

 

以上見てきたように、2つ目のモデルはそれなりに現実に即したモデルにも見えますが、実際はもっと考えるべき要素があると思います(人間社会の構造、クラスター、etc...)。

この記事のことは、あくまでもお遊びとして流していただけたらと思います。 

 

 詳しい方、感染症のモデルについて教えてください。

しまたび〜田代島編〜

 

9/4~9/6にかけて研究室同期と、牡鹿半島の先にある田代島・網地島金華山(山とついているが島)に行ってきました。

 

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旅行の大まかな流れとしては、釣り・砂浜遊び・神社参り(金華山)という感じです。

 

まずは1日目。

行き先は石巻からフェリーで40分くらいの所にある田代島です。田代島は猫島として有名なくらい猫がたくさんいる島です。朝日放送の相席食堂という番組のロケでロッシーさんが来島してました(Amazonプライムビデオで観られます)。

 

仙台から石巻まで電車で1時間ほど、車内ではご当地キャラ名前当てクイズを楽しんでいました。

 

 

 

[問題]このキャラの名前はなんでしょう?(群馬県高崎市生まれ)

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正解は...

フルーツ忍者ハルナ梨之助

 

 

 

 

そんなこんなで石巻に到着し、釣具店で餌(クソ気持ち悪い見た目)などを買いました。店員さんは親切に対応してくれていたのですが、方言?のせいで9割聞き取れなかったです。

 

 

 

 

さぁ遂にフェリーに乗って田代島へ!

気分はさながら麦わらの一味といったところでしょうか。

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田代島に着いたら猫など顧みずにとにかく釣りです。

なんせみんな釣り初心者にもかかわらず晩御飯の食料を釣れた魚に求めていたのですから。「釣れなかったら...ではなく釣るんだ!」と令和の世に相応わしくないド根性精神を信じていたのです。

 

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釣った後に死後硬直でカチコチになりました!



 

 

 

結果として3人分の腹を満たすほどの魚は釣れませんでした。

しかし、釣りは釣れない時間が大切なんだと聞いたことがあります。その間に広大な海と対峙し、己の精神と語り合い、心体統一の感覚を獲得していくのだと。。。そのような禅修行の前では、魚が何匹釣れたなどといったことは瑣末なことなのかもしれません(たらふく食べられないのはしんどいよ)。

 

 

 

 

 

 

地島編に続く...

2020 9/27追記

続きませんでした。